1.「それら(自律・自己決定、自己決定権)」の概観
第1章と第2章でカントによる「人間の尊厳」概念は、autonomy(自律)がその要諦であると記したが、それは個人の自由とそれを律することに対する無条件の尊重と、自己自身に対する義務はただちに他者に対する義務を負う相即不離の思想の意味である1)2)。そして、カントのautonomyの定義を要約すれば、1.他者からの干渉を排し自らの決定を下す権利としてのautonomy。2.自らの心の独立性を通し熟考の上に決断をする能力としてのautonomy。3.自立して理想的な生活するためのautonomyの3相から成り、これらは人間の尊厳を担保する道徳的な権利Moral rights(人格権)であるとした3)。
autonomyは、古代ギリシア語から派生し、語源はauto(自分)とnomos(法)に由来する。原義は姉妹語であるラテン語のautonomos(自分の法で生きる)である。英語で表現すると“one who gives oneself one’s own Law”(自分で自分に自身の法を与える者)となる。
autonomyは、欧米の現代社会の構成原理として、人間の在り方の基本原理として広く位置付けられているが、懐疑される語でもある。そしてautonomyとself-determination(自己決定)はしばしば対として、あるいは同義語として使用されている。それらは政治・社会学、法学・医学、哲学・心理学、宗教などの多岐にわたる分野で、カント(Immanuel Kant 1724〜1084)によるautonomy・self-determination概念は、ニーチェ(Friedrick W. Nietzsche 1844〜1900)、ロールズ(John B.Rawls 1921~2002)、ハーバーマス(Jurgen Habermas 1929〜)などを経て現在も広く議論が展開されている。
self-dterminationという言葉は、第二次世界大戦後の非植民地化を唱導するright of people to self-determination(民族自決権)の意味で使用されていた。当時の国連憲章は、self-determinationという言葉に2つの意味、一つは国家は政治的、経済的、社会的、文化的制度を自由に選択する権利、一つは国民が国家を構成する権利、または既存の国家との関係を自由に決定する権利、と定義している。現在でもヨーロッパのカタルーニャ、イタリア、スコットランドの自治権の拡大を求める運動の際にautonmyと共にself-determinationの言葉が使用されている4)。
autonomyとself-determinationの言葉は社会の中で自らの存在と決定を認められてこなかった人々の権利を主張する隠喩ともいえる。
医学・医療の上でもautonomyとselif-determinationは20世紀後半のQualty of Life概念に派生して医師主導のパターナリズムに抗する言葉として多用されてきた。この間の多くの宣言、学際的研究を経て、autonomyは基本的な倫理原則(医療倫理、生命倫理、研究倫理)の第一義となっている。Tom L. Beauchamp & Jammes F. Childress によるPrinciples of Biomedical Ethics 1979の respect for a patient’s personal autonomy(患者の自主尊重原則)5)、 1991年米国で制定されたThe Patient Self-Dtermination Act(患者自己決定法)6)などが良く知られている。
2.「それら」の誤謬7)
autonomyの日本語訳は、一般的に「自律」が用いられているが、日本の医学・医療の上では、その内容を鑑みれば、カント的概念の「自主」(上記の定義1)が適切と思われる3)5)。そしてself-determination(自己決定)とright of self-determination(自己決定権)の言葉には大きな違いがある。自己決定とは、生きる事の局面で人間が絶えず行っている個々の判断、選択、行為そのものであり、自己決定権とは、自己決定した事を社会や国家がそれを個人の権利として認める事である。自己決定は、発達段階の自己を認識する過程を含め他者との関わりの中で行われ、本質的に純粋な自己決定はあり得ない。一方自己決定権は、普遍的と想定されている抽象的な規範であり、個々はその運用に任され社会の多様な価値観や人間関係が切り捨てられる危うさを孕んでいる。
人間の尊厳とautonomyに関する欧米の多元性もある意味で誤謬といえよう。
生命倫理の上でのそれは顕著である。アメリカでは人間の尊厳を等閑視しautonomyの原則を第一義とする傾向にあり、ヨーロッパ的なそれと一線を画している。ヨーロッパ圏では人間の尊厳に対しては極めて歓迎的である一方で、その承認をめぐる不均一さが存続している。ゲルマン系の国々、ドイツ、オーストリアなどは、尊厳はその全ての状態における人間存在(胚や胎児でも)が有する内在的で普遍的な価値であるとし、さらにはそれを動物達にも拡大しようとしている。ベルギーは「生命倫理の多様性とその多文化的な地平を主張する国」としてヨーロッパ全体の縮図と言われている。ベルギーは長い議論の歴史を経て人間の尊厳よりもautonomyを原理とする傾向にある。その主張は生命倫理の基本的価値は、まずは個人の自由である。それを演繹しての“人間存在の尊厳”が真の価値であり、何が自らの尊厳に属するかを決定するのは各々の個人である、つまりautonomyとしている。第1回がん緩和ケアに関する国際会議で安楽死問題についての講演をしたベルギーのProf. Luc Deliensは、2026年の第5回会議でも安楽死問題の講演を行う予定である。フランスは、反対に、人間の尊厳を生命倫理と生命法の中心に位置づけ、これをautonomyとのカント的一致を要請している。イギリスはアメリカ的な生命倫理を踏襲しautonomyを主とし、人間の尊厳概念は法的思考に直接には言及していない。
大部分の国々は人間の尊厳を内在的価値と解釈しているが、それをautonomyという用語で見ている少数派も存在する。二つの立場の違いは例えば安楽死に関する問いをめぐって常に大きな議論となっている8)。
3.「それら」の今後
「それら」を包含した「人間の尊厳」概念は現在の世界の変動に対し僥倖となる可能性を秘めている9)。それはまさしく冒頭で述べた「個人の自由とそれを律することに対する無条件の尊重と、自己自身に対する義務はただちに他者に対する義務を負う」相即不離の思想に人類の未来を託す事を意味している。
参考文献
1)2023.1.19 A New Year's Message from the President
2)2023.6.1 Message on “Human Dignity" from the President, Dr. Ishitani
3)Oliver Sensen(ed). Kant on Moral Autonomy. Cambridge University Press.2022
4)Peter Hilpold(ed). Autonomy and Self-determination; Between Legal Assertions and Utopian Aspirations. University of Innsbruck, Austria. 2018
5)Tom L. Beauchamp & Jammes F. Childress(ed). Principles of Biomedical Ethics(8th ed) Oxford University Press, New York. 2019
6)Patient Self Determination Act, Dac Teol, Sasan Ghassemzadeh (ed) . StatePearls. Aug. 28.2023
PMID: 30855881 Bookshelf ID: NBK538297
7)誤謬;https://ja.wikipedia.org/wiki/誤謬
8)加藤泰史・後藤玲子編『尊厳と生存』法政大学出版会、2022
9)Vasil Gluchman. Nature of dignity and human dignity. J. Human Affairs.Vol.27, Issue 2. https://doi.org/10.1515/humaff-2017-0012
石谷邦彦
The International Research Society of the SCPSC理事長
医療法人東札幌病院 理事長
Asian Editor, BMJ Supportive & Palliative Care
2024年1月4日